文字アラカルト
文字で「らしさ」を追求することは、実に楽しいことです。
文字の始まりは、篆書体だと言われております。昔の事ですが、甲骨文字の本を手にしたとき、夢中でページをめくりました。「鳥」や「亀」や「門」など、そのものの姿が分かりやすくデザインされており、形のない「風」「集」「光」等はそれらしくなっており、その文字を手掛けたデザイナーはどんな人だったのでしょうか。形のないものを文字で表現する古代人は超能力者のようです。
古代人のつくった文字は、世界のどの国にも通用する造形美が多くあると思います。その文字が形を変え、現代に至っています。私などには到底、古代人のような発想は浮かびません。せいぜい今現在、読める現在の日本で使っている文字をアレンジしているだけです。
戸田提山氏は、「書も絵も平面上におけるバランス芸術である。」と申しておりました。芸術について、人によって色々な考えがあるようです。
例えば、芸術家の岡本太郎氏は「芸術は爆発だ。」と言いました。レオナルド・ダ・ヴィンチは「芸術に決して完成ということはない。途中で見切りをつけたものがあるだけだ。」「その手に魂が込められなければ、芸術は生まれないのだ。」と言い、またピカソは「子供は誰でも芸術家だ。問題は、大人になっても芸術家でいられるかどうかだ。」と言いました。またゴッホは「あなたのインスピレーションやイマジネーションを抑えてはならない。模範の奴隷になるな。」というように、芸術に対して色々解釈されているようです。
「模範の奴隷になるな。」この言葉は、ずっと考えさせられてきました。書の歴史は、古代人が生み出した文字から様々な書体を経て現在の活字やフォント文字になったのであって、先人は模範だけに終わっていたのではありませんでした。
書を極めようとしている人、または極めた人を道人と言うらしいです。
昔、通信教育で習字をしていた頃、手本を書いていた方は超有名人でした。その書道の会では段位が上方になると古典に入ってきました。古典の拓本の隣には、書家の書いた筆文字がたくさんありましたが、文字の形は素人の私にも分かるほど違っていました。手本を書かれた方はしっかり古典を学び、古典の奴隷にならなかったのだと思います。古典を学んだうえでの意臨だったのです。大先生と呼ばれる人の中には、意臨の作品が多く見られます。
書に関する考え方の相違が多様化しています。未来から現代の書を見たら、きっと滑稽な時代に映るような気がします。筆で書いたもの全てが書道と呼ばれたり、デザイン書道、インテリア書道、商業書道等、書道と呼ばれる多くを「それは書道ではない。」と言う人がいたり、「私は〇段だから私の方が上手い。」と言ったり、1つの書道の会だけを学んで自分の会以外を批判したり、書道歴の長さを以て上手、下手の判断をしたり、十人十色です。その十人十色の人の言うことは、もっともらしく聞こえます。きっと、もっともなことを言っているのでしょう。
そうそう、思い出しました。
私は、あのすごい西村計雄画伯の自称弟子です。学校で永六輔氏に絵を教えていた時代に、全員に100点をくれていたそうです。